一般財団法人 水戸東武館
創 立 | 1874年 (明治7年)1月1日 |
---|---|
創立者 | 小澤寅吉政方 |
歴代館長 | 第一代館長 小澤寅吉政方 第二代館長 小澤一郎 第三代館長 小澤豊吉 第四代館長 小澤 武 第五代館長 小澤喜代子 第六代館長 宮本忠彦 第七代館長 小澤 智 |
慶長7年(1602)5月、徳川家康は、水戸を支配していた佐竹氏を秋田へ移封し、常陸は、徳川家康の覇権の下に新たな領主の支配を受けて江戸時代の歴史の第1歩を踏み出すこととなる。
佐竹氏が秋田に去った常陸には徳川家康により新しい領主が配置されたが、その中でも水戸藩15万石武田信吉(家康の第5子)が群を抜いており、水戸の地は佐竹時代に引き続き常陸の重鎮とされ、関東最大の大名城地であった。
水戸藩初代藩主頼房・水戸藩二代藩主光圀時代は戦国の流れが残り、物情なお穏やかならぬところがあったために、この期の武芸は、もっぱら実戦的なものとして工夫をこらし、朱子学の教えに基づき「治にいて乱を忘れず」の士道の確立が目指された。
水戸藩の武芸を一貫する特徴は「文武不岐」を理想として、理論で学んだことを実践によって確かめ、また、実践で得たことを理論によって立証する精神、つまり実際に証明しないでは納得しないという実証的精神である。この精神は、第二代藩主光圀から第五代藩主宗翰の時代(前期)では、居敬窮理(欲求を去って心性を澄明にし物事の道理を究明すること)を要諦とする朱子学から影響を受け、第6代藩主治保から第九代藩主斉昭の時代(後期)では、理論より実証を重んずる古学思想によって助長された。水戸藩の武芸の精神は前期と後期では変わりがあるがいずれにしても、剣禅一味などといわれるように、観念的・神秘的・来世的な仏教に原理を求めず実際的・合理的・現世的な儒教に原理を求め一貫した実証的精神によって支えられていた。
剣術は、武士の表芸と考えられ、歴代藩主の奨励もあり、かつ武士として人格を形成するのに、最も適合していたことから、水戸藩でも盛況をきわめた。
北辰一刀流の開祖は、千葉周作成政(号・屠竜)(1794~1855)。父幸右衛門成勝の北辰夢想流と浅利又七郎義信からの小野派一刀流を合法起流したといわれる。神道無念流とともに弘道館の新興流派で、桜田烈士の剣脈となった。
水戸藩第九代藩主徳川斎昭(烈公)(1800~1860)は武芸を奨励した。北辰一刀流をあみ出した千葉周作が水戸藩とのかかわりをもつようになったのもこのころで、天保6年(1835)周作は、高弟臼井新三郎を帯同して来水、弘道館でその剣技を披露した。これが契機となって水戸藩に仕えることになり、月俸十人扶持を給されたが、天保12年6月1日に周作は禄高百石馬廻役に栄進した。また、周作の門下の俊英海保帆平芳卿(1863、42歳没、上州安中藩出身)は、藤田東湖の推薦により、五百石の高録で召し抱えられ、弘道館開設とともに剣術師範となった。
天保12年(1841)は、徳川斎昭が文武不岐を掲げて創設した弘道館仮開館の年で、まさに弘道館武術スタートの年でもあった。また、斉昭は水戸藩独自の水府流剣術を創始した。藩校弘道館は明治5年(1872)12月8日閉館されるまで30有余年間、日本を代表する藩校で多くの人材が育成された。
明治維新によって、徳川260年を支配してきた武士階級は滅びていった。しかし、武士の表芸であった各種の武術は生き続けていた。幕末生き残りの武術家は、全国各地にまだまだ大勢健在していた。
天保元年~明治24年(1830~1891)
館長在任期間 明治7年~明治24年
祖父は小澤多門正敏(号・蘭江)。歴算、西洋歴法を研究し彰考館史生として第6代藩主治保(文公)に仕する。天明7年(1787)8月13日(33歳)没する。
父は小澤多久衛門篤行、吟味役、馬廻、新番組頭、大番を務め嘉永2年(1849)7月19日(64歳)没す。
東武館の創始者、小澤寅吉政方は、小澤多久衛門を父とし天保元年(1830)水戸田見小路(現北見町)に生まれる。
嘉永3年(1850) | 馬廻組 |
---|---|
安政3年(1856) | 官に請い奥州諸藩を歴訪 |
文久3年(1863) | 書院番 |
元冶元年(1864) | 矢倉奉行 |
明治6年(1873) | 県会議員2期 |
明治7年(1874)1月1日 | 東武館創設 |
寅吉政方は、父多久衛門に剣術を習い、江戸小石川の水戸藩邸に出仕して頭角を表すようになる。記録に残る最初の役職は馬廻役である。馬廻役は、藩主の身辺警護役として腕の立つ者が選ばれることから寅吉政方の腕は、かなりのものだったようだ。千葉周作が日本橋品川町(後に神田お玉が池)に開いた玄武館にも通い、修行を積んだとされている。後年寅吉政方が北辰一刀流を継ぐことができたことを考えると、剣術の腕もさることながら識見も相当にすぐれていたことが推察される。
同時代を生きた藤田東湖(1806~1855)や武田耕雲斎(1803~1865)ら幕末の学者、志士らとも親交があったようである。元治元年(1864)に大番組を務めている。
元治元年3月、天狗党の乱で藤田小四郎らが筑波山に挙兵した。水戸藩、幕府が追討軍を出し、藩内が騒然としていた11月、寅吉政方は矢倉奉行に任じられ、禄百石を賜った。このことをみると寅吉政方は、第十代藩主、徳川慶篤の側にいたことが推察できる。
矢倉奉行兼弘道館指南役としての寅吉政方が、この水戸藩を二分して血で血を洗う死闘の最中、どのような役割で足跡を残したのか、現在のところ不明である。
東武館が創設されたのは幕末維新の激動が収まった明治7年(1874)である。
寅吉政方は、武士が失業し、武士たちの生活が衰亡することによって、これまでの武士道が滅びてしまう。つまり、日本人の心のよりどころがなくなってしまうということを、非常に心配した。「士風の喪失の憂い」を痛感したのである。
この日本の武士道は、何としても残さなければならない。これは武芸十八番の筆頭である剣術と水戸学の「文武不岐」の精神を盛んにしなければならないということで、これが東武館創立の基本精神となった。ちょうどそのころは廃刀令で刀を没収され剣道などをやっていると謀反でも起こすように見られた時代であった。しかし、寅吉政方は、敢然と日本伝統の士風の回復を胸に、水戸市田見小路の自邸内に道場を設け、東武館と名付け、専ら青年子弟に北辰一刀流の剣術及び新田宮流抜刀術を教授し士気を鼓舞したのである。
明治7年1月1日、館創設後、欧化万能主義が国内を風びし、剣術に対する世間からの迫害は少なからぬものがあり、その経営には一方ならぬ苦心があったという。しかし寅吉政方は強固なる信念をもって、「太刀振りて 何するものと 人問はば み国守れる 業と答へよ」「打つ太刀も 打たるる太刀も 何かあらん 国守る魂を よし磨く身は」の2首を道場の指導精神として館の経営に精魂を打ち込んだ。
そのころの道場の広さは15坪(49.5平方メートル)ほどで、それに5坪(16.35平方メートル)の溜まりがついているものだった。天井もなくて、屋根裏のうつばりがそのまま見える質素な道場であった。
寅吉政方は、理財の才を持ち当時はまだ「士農工商」の考えがあり、士の次は農業だと考え、失業した武士が売り払った家屋敷や土地を買って農耕作業をしたり、桑を植えて養蚕事業を起こしたりした。
多くの弟子が寅吉政方を慕って集まった。多いときは18人も食客がいたという記録もある。そして昼間は農業をさせ、夜は道場で剣道の稽古をさせた。
少年教育にも力を尽くした。その教育が実って、明治30年京都に武徳会が出来たとき水戸東武館少年部出身の内藤高治や門奈正、佐々木正宣といった剣士が一流の剣士として武徳会に招かれるなど、近代剣道の基礎を築いた人材を輩出した。
政治面でも手腕を発揮し、県会議員を2期務め、地域のために活躍。明治24年(1891)8月2日、62歳で没した。
安政4年~大正7年(1857~1918)
館長在任期間 明治24年~大正7年
館祖小澤寅吉政方の長男として安政4年11月8日、水戸田見小路に生まれる。一郎弘武は、次男二郎篤信と共に剣技に秀で創始者の意を体して道場経営に努めた。一郎弘武が北辰一刀流を継承し、弟の二郎篤信は水府流を継いだ。
一郎弘武は、8歳のときから水戸藩指南役の叔父の小澤三次郎敏行や下江秀太郎について北辰一刀流の剣法を学ぶ。のち父寅吉及び福生忠左衛門について新田宮流居合抜刀術を修めている。国漢字は旧水戸藩士で文学者の青山鐡槍・柳瀬勝善に教えを受けた。
明治7年(1874)、17歳のとき茨城県庁の推薦で警視庁に奉職したが、1年余りで退職し、東武館で精励した。同7年の廃藩直後、父寅吉政方及び門人36人と共に東北各藩をめぐり剣道が廃されることを憂い唱道する。同10年にも奥羽地方をめぐり、各地の剣客と試合し、明治14年東京に出て榊原健吉について修行を重ねた。同17年天覧撃剣会には茨城県を代表して出場し賞を受け、同年、山岡鉄太郎(春風館)、千葉之胤(玄武館)について1年間修行し、水戸へ帰り、茨城県警察本部の、撃剣教授となった。
21年(1888)には中仙道の剣客を訪問して試合し、帰ってから水戸弘道学会剣道部の教授となり、22年渡里村安蔵十七郎主宰の養武館をはじめ県内各地に東武館支部を設けて剣道の普及に努めた。
「武術は人を斬ったり、倒したりすることが目的ではない。武術は自分を磨き世を守るためのものである。これを後世に伝え、残さなければならない」と武道の復興に取り組んでいく。
当時、まず官界では警視庁の首脳が動いて明治12年巡査に武術を教えることになった。その時、多くの幕末生き残りの武術家が、警視庁の武術世話係として採用されている。警視庁の中で武術がもう1度花開き、一大武術王国を築きあげていくことになる。
一方、民間でも有志が集まって、武道の復興と普及のために乗り出した。その旗揚げは、明治28年(1895)、京都の平安神宮の造営を機に、当地で行われた。
桓武天皇が平安宮の大内裏の北面に武徳殿を設けて、武人に騎馬、射、その他の武芸を錬磨させ、武芸を奨励した故事にあやかって、明治28年に全国の武道家および武道愛好家を会員とする「大日本武徳会」を設立し、ここを武道振興の総本山とした。そして毎年1回、全国の武道家を集めて、武徳祭武道大会を開催することにした。この武徳祭武道大会は、消えかかっていた民間の武道にとって、復活と推進の大きな原動力となった。
「大日本武徳会」は、武道振興策を打ち出して、武道興隆の牽引役を果たしている。その一つが武道を中等学校の正課として、採用させたことである。この運動は、大日本武徳会が設立された当初からの課題であった。その先頭に立って推進した1人が一郎弘武であった。早くも第1議会(明治29年10月開会)に、同志とともに建白書を出した。
この時は否決されたが、一郎弘武らは熱心に関係各方面への働きかけを続けた。武道家で衆議院議員の星野仙蔵、衆議院議員の小澤愛次郎(小澤丘の父)、剣友の内藤高治、高野佐三郎、柴田克巳などと協力して、国会への請願運動を続けていった。この剣道界あげての運動は、ついに国会を動かし、第24議会(明治40年12月開会)において、請願書は全員一致で可決された。そして明治44年(1911)7月に、師範学校、中学校の正課として、ここに武道が採用されることになり剣道の振興に大きな功績をあげた。
さらに、同時に衆議院議長鳩山和夫あてに「剣道形制定への建議書」を出した。また、明治44年武徳会剣道形制定のための関東代表委員となり活躍した。
経世の道にも通じ、門弟を愛し、農園、果樹園等を営み、さらに市民の遊園地として小澤の滝を設けた。その当時、館の剣風を慕い集まる修行者多く、昼は農に従い、夕には武術の修練に励んだ。また、全国各地から修行に来る剣客とその技を競いあった。
政治にも関与し、水戸市議会議長としても手腕を振るった。大正7年(1918)11月30日、61歳で没す。
万延元年~大正5年(1860~1916)
万延元年(1860)5月8日、小澤寅吉の次男として生まれた二郎篤信は、水府流を継承。水府流道統によると二郎篤信は水戸藩指南役の豊島虎之充胤から教えを受けている。その傍ら農事に従事。明治8年(1875)には父寅吉の命により、福島県に出向き、蚕業家の渡邊源兵衛、芳賀甚七につき蚕飼育法及び桑園栽培技術を習得した。3年後帰水し蚕業を営み、桑園栽培の改良に力をつくした。
この間にも、父寅吉が組織した撃剣会の奥州巡業に一郎弘武とともに加わり修行を重ねた。また剣術の普及発展のため広く県内を巡った。技撃は大いに進み、同18年(1885)7月本県演武場での試合では褒賞を受け東武館助教授、演武場教授となり、同25年剣術指南免許状を受ける。さらに、同28年10月京都における試技撃で小松総裁宮から木盃を賜る。同30年10月には大日本武徳会の拡張の功績により小松総裁宮から有功章を、38年12月には総裁宮から武徳会剣道教士の称号をそれぞれ受ける等、大いに活躍した。
二郎篤信が継いだ水府流の流祖は、第九代藩主徳川斉昭(烈公)。斉昭は、諸大名にはまれな各種武芸の精通者で、剣術は伊藤孫兵忠篤(一刀流)、射術は、榎本四郎兵衛従之(大和流)、長刀術は渡辺甚蔵裕(穴沢流)に相伝し、特に鉄砲の術に詳しく、諸流の粋を集めて、神発流砲術を創始し、騎砲の調練を得意とした。このほか、水府流剣術、常山流長刀術を創案している。そして新興流派の乱稽古にも専心したが、元来は既成流派出身で、当時の執政で東軍流の達人であった鵜殿広生の意見を入れて形稽古の工夫も怠らなかった。また新興流派の神道無念流や北辰一刀流を導入するとともに、既成流派の一刀流、新陰流、真陰流を合わせて形組を作り水府流と名付けて、弘道館剣術4流(水府流、北辰一刀流、神道無念流、東軍流)の一つとし、弘道館剣術稽古場3場の中央を水府流と定めたことは、既成流派の補強策であるとともに、新旧両派の調和安定策でもあった。
以上のことから斉昭は、新旧いずれにも偏らず、両者の長を採り短を捨て、新旧の対立を集約した形において両者に切磋琢磨による発奮の機会を与え、天下第一等の剣の完成を目指したものと思われる。
明治35年6月24日、常磐神社において二郎篤信の水府流の指南就任報告祭が行われた。参列者は各流派指南に加え、叔父の小澤敏行、一郎弘武ほか旧水戸藩のそうそうたる各流派剣士が顔をそろえた。二郎篤信は朝倉宮司より水府流伝書を受け、明治5年以降30年間途絶えていた水府流が復活した。しかし二郎篤信は、兄一郎弘武に破門という形を自ら申し出て東武館を退いた。二郎篤信の死後、水府流は衰微する。
大正5年(1916)8月11日、57歳で没した。
明治25年~昭和31年(1892~1956)
館長在任期間 大正12年~昭和8年
明治25年(1892) | 古和田政治の3男として3月7日、福島県伊達郡飯野町に生まれる。幼くして若林の姓を継ぐ |
---|---|
明治40年(1907) | 16歳で水戸東武館入門 |
大正8年(1919) | 大日本武徳会本部講習科卒業 |
大正9年(1920) | 大阪府天王寺師範剣道教師 |
大正12年(1923) | 道場養子として小澤姓を名乗る |
大正12年(1923) | 第三代館長に推挙される |
大正13年(1924) | 茨城県師範学校剣道教師 |
大正14年(1925) | 茨城県巡査教習所講師 |
昭和4年(1929)10月 | 茨城支部武徳会の新武徳殿が竣工し、「天覧試合」に出場 |
同年11月 | 陸軍大演習天覧試合に佐藤信雄とともに指定選手として出場 |
昭和6年(1931) | 水戸高等学校剣道教師 |
昭和8年(1933) | 皇道義会剣道部長 |
昭和9年(1934) | 東京高等学校剣道教師 |
昭和10年(1935) | 東京帝国大学剣道師範 |
昭和15年(1940) | 奉祝紀元2600年橿原神宮奉納武道大会指定選手 |
同年 | 奉祝紀元2600年宮内省主催天覧武道試合指定選手 |
昭和28年(1953) | 剣道範士 |
同年 | 東大剣道部復活に伴い剣道師範 |
豊吉の養父若林長之助は剣の達人で、自邸内に無声堂という道場を持っており、豊吉は幼少のころから養父のもとで、剣の修行に励んだ。天賦の才をもった豊吉は剣道によって身を立てようと決意し、水戸東武館へ明治40年7月、16歳で入門した。
そのころ、東武館には、未来の剣豪を夢見る内弟子達がひしめきあっていた。古来何芸によらず、内弟子と名のつく者の修行は厳しいものとされている。特に東武館は関東一の荒道場といわれただけに、その稽古はすさまじかった。ノドを突きぬかれ、道場の床に叩きつけられ、組み伏せられ、いくたびも涙をのんだ。さすがの豊吉も途方にくれることがたびたびあった。そんな時いつも彼を励ましてくれるのは郷里の父からの手紙であった「かんなん汝を玉にすの古語深く味わうべし」と。
東武館で本格的な修行を積み、大正6年(1917)かねてあこがれの武の本山、京都にある武徳会本部の剣道講習生となる。当時武徳会本部には水戸出身で東武館の大先輩である内藤高治、門奈正の両範士がおり、豊吉(当時若林姓)の非凡の剣に将来を期待した。なかでも門奈にはことのほか目をかけられていたという。
本部で1年半本格的な業行を積んだ豊吉は大正8年(1919)大阪天王寺師範学校長の懇請で同校に剣道教師として赴任した。また、翌10年、請われて大阪医科大学予科剣道講師となる。
そのころ、水戸東武館においては、館長小澤一郎弘武が他界(大正7年)して数年の間、館長不在の時期があった。関係者たちは館の将来を心配し門人会議を開いて館の興隆策をはかると共に、満場一致で若林豊吉を東武館長に薦し、小澤の姓を継がせることに衆議は決した。いわゆる道場養嗣子で大正12年(1923)のことであった。
水戸は小澤豊吉にとっては第2の故郷であり、東武館は心のふるさとである。小澤の姓を賜り恩師の跡をつぐ光栄と責任の重大なるをつくづくと感じたことであった。館長として1切のことを任された豊吉は新たに少年部と青年部の組織をつくり、暇をつくって各地を遍歴し、人材を4方に求め、塾生を寄宿させては真の専門家の養成にあたるなど館の伝統を生かすことに努力した。館長豊吉は、横松勝三郎、越川秀之助、佐藤信雄、森山繁雄等の助けを得て館の維持発展に努めた。
昭和8年(1933)11月、豊吉は市毛正平(東武館出身で内藤高治のおい)の後任として東京皇道義会へ招かれた。皇道義会は当時東都第一の道場を持ち政財界を背景に、その存在は厳然たるものがあり、同会の師範ともなれば斯界せん望の的であった。その師範であった市毛が不帰の客となった後、自薦他薦の候補者が多数あったが、本県選出の代議士(政友会)で同会の会長でもあった石井三郎が人を介して豊吉を招いた。石井は久慈郡久米の出身で、若いころ水戸東武館に寄宿して修行した時期があった。当時豊吉は水戸東武館の三代目館長として、また、武徳会支部主任教師、警察師範をはじめ旧制水戸高等学校師範等重要な地位にあり、その人格と共に鍛えぬかれた剣技と名声は天下にとどろいていた。
水戸東武館館長から東京皇道義会剣道部長に転じた豊吉は時に41歳、天性の才能と努力によって鍛えぬかれたその剣はますます冴えを見せた。その後、中山博道の推挙で東京大学の剣道師範を兼務、名実ともにその剣名は東都剣道界を風びした。しかし、終戦の痛手は大きかった。剣道の追放によってその職場を失ったことは多くの剣道人と同様であった。
その後剣道が復活すると、昭和28年(1953)5月、戦後第1回の京都大会で範士に昇進、東京大学にも嘱託として復職、再び生気を取り戻したのであったが昭和31年(1956)3月3日東京で65歳で没す。
明治39年~昭和6年(1906~1985)
館長在任期間 昭和5年~昭和6年
明治39年(1906)6月23日 | 父中島善七の10人兄弟の9番目として佐賀県佐賀市巨勢町に出生。 |
---|---|
昭和4年(1929) | 大日本武徳会武道専門学校卒業 |
昭和5年(1930) | 小澤家の養嗣子となる |
昭和7年(1932) | 大日本武徳会武道専門学校研究科卒業 |
昭和21年(1946)11月 | 県剣道研究会発足 理事長就任 |
昭和26年(1951) | 県撓競技連盟発足 理事長就任 |
昭和28年(1953) | 県剣道連盟結成 理事長就任 |
昭和36年(1961) | 剣道8段 |
昭和39年(1964)5月 | 剣道範士 |
昭和41年(1966) | 茨城県剣道連盟会長 |
昭和47年(1972)11月 | 藍綬褒章受章 |
昭和53年(1978)10月 | 第15回いはらき賞受賞 |
昭和6年(1985)4月 | 勳4等瑞宝章受章 |
武は武道専門学校を卒業する時、首席師範の内藤高治に「水戸の師範学校と商業学校から、卒業生を是非欲しいと言ってきた。君を推薦することにしたので行きなさい」こう言われて、困ってしまったという。卒業したら郷里の佐賀へ帰るつもりでいた。たまたま知り合いの唐津中学校の校長に、是非うちの学校に来てくれと言われて、口約束が出来ていた。そのことを話して、「先生、私は佐賀へかえりたいのです」と答えた。すると「郷里というところは、功成り名を遂げてから錦を来て帰るところで、若い時に行くとチヤホヤされて大成しません。水戸は武道の盛んな土地柄で、剣道を修行するにはとてもいい所です。私が少年の頃に修行した東武館という立派な道場もあるし、そこにも紹介の手紙をかいておいた。武専の卒業生は関東に少ないから、君は水戸へ行って関東の開拓者になりなさい」(水戸東武館鬼の涙から抜粋)
武道専門学校の主席師範内藤高治の推薦を受け水戸の地を踏み茨城師範学校、水戸商業学校で教鞭をとり武道専門の道に就く。昭和5年小澤家と養子縁組が整い、一郎弘武の長女喜代子(第五代館長)と結婚し、水戸東武館館長となる。同5年4月からは2年間大日本武徳会武道専門学校研究科に学んで昭和7年4月からは再び茨城県師範学校で剣道と国漢の教諭となる。
昭和2年(1945)8月1日水戸空襲で倉と母屋は消失を免れたが道場は戦火により焼失。昭和21年(1946)GHQの武道禁止令に遭遇してからは、剣道の衰退を憂い、武道は禁止されたが剣道愛好家と焼け残った倉の1部を改造してひそかに稽古を続け、館の伝統を守りぬいた。昭和28年禁止令が解けるや武館長は戦火で焼けた剣道場の再建を果たすため総工費500万円の予算を計上した。
常陽銀行頭取亀山甚の積極的な後ろ盾のもとに全国有志から浄財を集め、巨額の私財をも投げうって道場を建設。この新道場が武館長の自慢のものである。
道場の床板は、全部5間通し。スギ材で幅は5寸、厚さは1寸2分、道場の生命は床板にある。館長も床板に意を注いで、最初はヒノキ材にする計画であったが、中山博道の「ヒノキというものは非常によいけれども冬はすべるし、かえって狂いが来る。なるだけ古いスギで、それも厚さを1寸以上にして通し板にするとよい」と言われ、スギ材に変更した。昭和29年(1954)2月13日には文部大臣の認可を得て、同年5月1日設立登記をし、財団法人水戸東武館を設立、剣道伝承を謳う小澤家父祖の遺志を実現した。
この間、剣道復活の国民運動を提唱する傍らで茨城県撓(しない)競技連盟を結成、理事長となった。全日本撓(しない)競技連盟がやがて全日本剣道連盟に発展すると、ここでも評議員や理事などの要職を歴任、第三代茨城県剣道連盟会長にも就くなどして剣道の普及振興に努め、一方全国の青少年の健全育成に力を尽くした。
弘道館建学の精神に沿って「文武不岐」をその指導精神としながら、少年剣士を率いて全国武者修行。また全国選抜少年剣道錬成大会を頂点とするさまざまな大会を主催するなど卓越した見識と指導力を惜しみなく発揮した。その特色のある少年教育事情を視察したいと多くの人々が東武館を訪れ、中でも昭和39年3月に来館した駐日アメリカ大使ライシャワー博士をして「日本国民の精神は実にすばらしい。この精神を東武館の少年たちのように剣道を通して大きく伸ばすよう望みます」と語らしめた。
第四代小澤武館長は館祖の目指した武道振興と人間形成を目途に、先の大戦後の日本国民の意気高揚を図るため、「勉強します」「剣道します」「よい行いをします」の3誓願を大会のスローガンに掲げ、昭和35年(1960)第1回全国選抜少年剣道錬成大会を開催した。平成21年(2009)には50回を迎える。
温厚篤実な人がらの中にも激しい情熱を秘めて剣道普及のためにさらに外国へも足を伸ばした。中華民国、香港、ハワイ、イギリス、カナダ、アメリカ、ブラジルなどへ親善使節として積極的に行動し、その功によりブラジルからはコマンダル賞を授与されている。
千葉周作の創始になる北辰一刀流、新田宮流抜刀術を継承しつつ、剣道教育への創意工夫と実践にその生涯をかけ、わが国の剣道普及・発展に多大の功績を収めた。その功績は高い評価を得て昭和47年には藍綬褒章、昭和53年にはスポーツ部門で第15回いはらき賞を受賞している。昭和6年(1985)3月28日、80歳で没す。
大正元年~平成9年(1912~1997)
大正元年(1912)8月28日 | 横松勝三郎の次男として神奈川県横浜市に生まれる。 |
---|---|
昭和9年(1934) | 大日本武徳会武道専門学校卒業 |
昭和9年(1934) | 神奈川県巡査武道助教 大阪高等工業学校講師・助教授 |
昭和12年(1937) | 小澤家の養子となる |
昭和18年(1943) | 水戸中学校講師・教諭 |
昭和45年(1970)5月 | 剣道範士 |
昭和47年(1972) | 茨城県学校剣道連盟会長 |
昭和5年(1975) | 全日本学校剣道連盟審議員・全日本剣道連盟理事 |
昭和53年(1978) | 東西対抗剣道大会(熊本県)東軍監督 |
昭和59年(1984) | 体育功労により勲五等双光旭日章受章 |
昭和61年(1986) | 第四代茨城県剣道連盟会長 |
昭和63年(1988)5月 | 剣道9段 |
次郎は父、剣道範士横松勝三郎の次男として生を受け、幼少から剣道の環境の中で育ち、生涯を剣道に捧げた。勝三郎は、明治35年、18歳のときに水戸東武館に内弟子として入門し、第二代館長小澤一郎弘武の秘蔵弟子として修行を重ねた。東武館で5年間修行の後、神奈川県警察の師範となった。武次郎は父勝三郎の影響を受け、若いころから水戸東武館で修行をした。
水戸東武館とのかかわりは中学3年の夏、父勝三郎が修行した水戸東武館に横浜から武者修行にやってきたことに始まり、その後3年間、春、夏、冬と休みのたびに東武館に通いつめ修行をした。
「水戸東武館小澤武伝」によると昭和5年(1930)第四代館長小澤武は武道専門学校の研究科で2年間修行した時のこととして、次の一文がある。
「京都では、家を1軒借りて、そのとき現在義弟の小澤武次郎君、それから甥の中島巨勢男というのが武専の1年に入りました。私の実弟である中島深というのは2年在学中でした。この3人と1緒に家を借り、私の母を佐賀から呼んで炊事をして貰い、2年間の京都生活が始まったのです。武次郎君はご承知の通り、小澤一郎先生の秘蔵弟子の横松勝三郎範士の次男坊ですが、縁があって家内の妹と結婚して小澤家の分家となり、東武館の副館長になって貰った。その横松勝三郎先生は非常に立派な人格者でした。栃木県出身で、剣道が飯よりもお好きで、東武館の内弟子になったんです。そして5年間修行し、さらに神奈川県の警察に奉職されたんです。家内の父の一郎先生がね、その横松先生に長男が生まれたとき東武館の「東」をとり東海太郎(とみたろう)と名付けたんです。そして次男には東武館の「武」をとって武次郎という名前にしたのですね。この長男、次男の名を合わせると「東武」になる。やはり東武館には縁があったのですな」)
結局武次郎は、小澤武館長夫人喜代子の妹小澤千代子(なぎなた教士7段)と昭和12年(1937)婚姻、小澤家に入籍し武館長と2人3脚で館の運営を始めた。
昭和18年(1943)旧満州で軍隊を除隊となり、水戸へ帰ってから水戸中学校(水戸中学校は学制改革により水戸第一高等学校となる)講師・教諭となり昭和43年から茨城県立水戸第一高等学校通信制主事を務め、高等学校の教育に専念した。
昭和28年(1953)、それまで禁止されていた剣道が再開できることとなり、当初「しない競技」という形で出発した。本県では同年高等学校の初代剣道部長に渡辺春吉(当時、県立江戸崎高等学校長)、委員長に小澤武次郎が就任し、茨城県高等学校体育連盟剣道部がスタートした。
昭和28年(1953)剣道復活以降12年間、県の高等学校剣道振興の旗頭として活動した。さらに、全国高等学校体育連盟剣道専門部の委員としても活動した。同48年(1873)3月退職。退職後、いっそう東武館の活動・運営に力をいれた。(財)水戸東武館が毎年3月に開催する「全国選抜少年剣道錬成大会」を企画運営し、館長ともども陣頭指揮をとり、大会を成功裏に終了させるとともに、全国の剣道を愛好する少年・指導者に大きな夢を与えた。
館運営の傍ら茨城県の代表として全国教職員剣道大会や日光剣道大会、都道府県対抗剣道大会、全日本剣道選手権大会、東西対抗剣道大会等の選手としても活躍した。
今日の本県剣道界、全国高等学校剣道専門部の土台を築き、平成2年(1990)永年の教育振興により勲五等瑞宝章を受章した。同9年(1997)5月15日、85歳で没す。
明治40年~平成13年(1907~2001)
館長在任期間 昭和6年~平成5年
明治40年(1907)5月2日 | 水戸市田見小路に生まれる |
---|---|
大正15年(1926) | 県立水戸高等女学校専修科卒業 |
昭和10年(1935) | 県立水戸高等女学校、茨城県師範学校付属小学校等でなぎなた指導 |
昭和27年(1952) | 茨城県なぎなた連盟を設立 初代理事長 |
昭和44年(1969) | なぎなた8段 |
昭和51年(1976) | なぎなた範士 |
平成2年(1990)秋 | 勲五等瑞宝章受章 |
平成3年(1991) | 茨城県なぎなた連盟会長 |
平成4年(1992) | 茨城県なぎなた連盟名誉会長 |
平成5年(1993) | 財団法人水戸東武館名誉館長 |
水戸東武館創設者小澤寅吉政方を祖父とし二代目館長小澤一郎弘武を父として生まれる。県立水戸高等女学校、同専修科を卒業。
昭和5年(1930)1月17日、小澤武(旧姓中島)と縁組。結婚後、虚弱体質だった喜代子の健康を案じた武からの勧めで、なぎなたを始めた。喜代子が師事したのは、直心影流宗家園部ひでを門弟の米川朝子(東武館師範、森山繁雄の妹)で、米川は月に1回、2泊3日の日程で来水。喜代子が中心となって先生の薫陶を受けた。その門下から、なぎなたの指導的役割を果たす多くの人材を生みだしている。
第2次大戦後、全日本なぎなた連盟の発足に加わり有志とともに文部省に「学校指導要領になぎなたの実施」を陳情し、実現する。さらに県高等学校のなぎなたの組織を拡大し、高等学校体育連盟への加入促進のため努力し同61年(1986)加盟を実現させた。
長年にわたり夫である第四代館長武と共に武道の発展を願い、館の運営を支え、館に伝わる北辰一刀流の継承にも努めた。
平成9年(1997)武館長没後、4年間、第五代館長として館の運営に尽力した。同13年(2001)2月7日94歳で没す。
大正14年~平成16年(1925~2004)
館長在任期間 平成5年~平成14年
大正14年(1925)9月17日水戸市泉町に生まれる。小学校1年生から水戸東武館少年部で稽古に励んだ。天性の素質を持ち、幼少年時代から各大会で活躍。長じては全日本都道府県対抗剣道大会、日光剣道大会、国民体育大会、全国8段選抜明治村優勝大会等数多くの大会に選手として出場し活躍。全日本剣道連盟評議員、茨城県剣道道場連盟副会長、県体育協会評議員等を歴任し館の運営に尽力した。
四代館長小澤武没後、宮田忠幸(現副館長)と新田宮流抜刀術の演武を通して古武道の継承に努めた。平成2年(1990)と同8年(1996)5月、京都大会で新田宮流抜刀術を宮田忠幸と演武。
昭和22年(1947) | 東海科学専門学校卒 |
---|---|
関東電気電信部監査部調査役 | |
昭和55年(1980) | 剣道8段 |
昭和59年(1984) | 茨城県剣道連盟副理事長就任 |
昭和6年(1985) | 居合道5段 |
平成元年(1989) | ユーロバリア89(ベルギー)剣道使節団団長として渡欧 |
平成2年(1990) | 剣道範士 |
平成4年(1992) | 茨城県剣道連盟第五代会長就任 |
平成8年(1996) | 春勲五等瑞宝章受章 |
平成16年(2004)5月7日没 | 79歳 |
昭和13年(1938~)
館長在任期間 平成14年~現在
昭和13年(1938)1月12日 | 横浜市に生まれる |
---|---|
昭和39年(1964) | 茨城県立日立商業高等学校教諭に採用される |
昭和5年(1975) | 剣道教士7段 |
平成4年(1992) | 県立高萩高等学校校長 |
平成9年(1997) | 県高等学校体育連盟会長 |
平成10年(1998) | 水戸家庭裁判所調停委員 |
平成12年(2000) | 県学校剣道連盟会長 |
平成15年(2003) | 水戸地区剣道連盟会長 |
平成16年(2004) | 県剣道連盟副会長 |
平成20年(2008) | 春の叙勲 瑞宝小授章受章 |
同年 | 全日本学校剣道連盟創立50周年記念 功労者表彰 |
前東武館副館長剣道範士9段小澤武次郎の長男として生まれる。昭和31年(1956)東京教育大学に入学し、体育学部教授、中野八十二先生に指導を受ける。
昭和39年(1964)茨城県高等学校教員に採用される。体育教師として学校教育に専念。生徒の指導ほか、剣道部顧問としても指導にあたる。
高等学校体育連盟剣道専門部部長、茨城県高等学校体育連盟会長として高校スポーツの振興発展に尽力した。
昭和49年茨城県で開催された第29回国民体育大会では剣道教員の部の監督として参加し、優勝。剣道は本県で最初の優勝競技となった。
(財)水戸東武館は現在、宮田副館長以下の指導者の協力のもとで運営。
平成14年(2002)全日本剣道連盟設立50周年に際しては長年の剣道活動の実績が認められ、優秀団体として表彰を受ける栄誉に浴した。また、同18年(2006)剣道優良団体として全日本武道協議会から名誉ある表彰を受けた。
昭和10年(1935~)
昭和10年(1935)10月12日 | 水戸市に生まれる |
---|---|
昭和47年(1972) | 剣道教士 |
昭和49年(1974) | 剣道7段 |
昭和61年(1986) | 居合道教士 |
昭和61年~平成19年(1987~2007) | いばらき社会保険センター居合道講師 |
昭和63年(1988~) | 県剣道連盟常任理事 |
平成元年(1989~) | 有限会社宮田卯之商店代表取締役 |
平成14年(2002~) | 県剣道連盟居合道部副部長 |
平成9年~15年(1997~2003) | 水戸地区剣道連盟会長 |
平成15年(2003~) | 水戸地区剣道連盟顧問。 |
平成11年(1999) | 居合道8段 |
昭和28年10月11日、茨城県高等学校総合体育大会・第1回剣道大会が水戸東武館で開催され水戸一高が優勝。その時、水戸一高の選手として宮田忠幸(現水戸東武館副館長)、鳥居泰彦(元慶応大学学長)、小澤智(現東武館長)が出場した。
昭和32年第6回(剣道復活後第1回)全国青年剣道大会で準優勝。
昭和49年、第2回全日本東西対抗剣道大会(奈良)に出場。
平成10年、第48回全日本剣道選手権大会の公開演武で総指揮をとる。剣道とともに居合の修行にも励み実力をつける。
昭和56年10月本県の茨城県で開催された第16回全日本居合道大会では5段の部に出場し、個人の部・団体の部で優勝、大会史上初の完全優勝の快挙を成し遂げた。
平成13年居合道8段選抜箱根大会に出場、第3位となる。全日本剣道連盟から剣道・居合道審査員、講師としてベルギー(2回)・イタリア(4回)へ派遣される。
参考文献
(1) 水戸市史 中巻(二)
(2) 藤田東湖著「常陸帯」
(3) 杉崎寛著水戸東武館鬼の涙 あの人この人社
(4) 水戸東武館長小澤武伝 文武不岐
(5) 水戸の先達 水戸市教育委員会
(6) 水戸東武館長小澤武伝 文武不岐
(7) 茨城の剣道史 中村広修著
(8) 茨城の武芸 剣の巻 国学院大学剣友会茨城県支部